日々お腹ぽんぽこ

雑感と備忘メモ

とある文系院生の研究手法(1) 文献との向き合い方

自分の研究手法を客観的に眺めたいと思ったとき、書籍やインターネットなどで、研究者や院生の研究手法をのぞかせてもらうことも少なくない。

それでは自分はどうなんだ、ということで、これまでの自分の研究手法の試行錯誤を書いてみようと思う。

 

(1) 外国語文献との向き合い方

趣味で好き勝手にあれこれ外国語に手を出すのは好きだったけど、研究で使える読み・書き・喋り、となると、必要な能力がまだまだ全然足りてない。

だけど、それでも、研究は前に進めなくてはならないというジレンマのなかで、やってきたことをまとめると以下のような感じだろうか。

文法をひとまず一通り学ぶ

読もうとしている外国語文献に関連する日本語文献にざっと目を通す

文法書・辞書を参照しつつ、外国語文献を読み進めていく

外国語文献については、まだ100%読みこなせる自信もないので、日本語で背景知識を入れることにわりと力を注いで内容理解をちょっとでもマシにしようとしているのが私の現状かもしれない。

 

(2) 日本語文献の向き合い方

日本語文献は、①直近の自分の研究テーマに強く関連するもの、②自分の研究テーマとの直接の関連は薄いが面白い論文、③自分の研究分野の基礎的・古典的な文献に目を通すことが多い。

日本語文献でも外国語文献であっても、読みの深さで勝負するとどうにもこの人にはかなわないことが少なくないので、私の場合は、とにかく資料を渉猟し、そこから得たものを一つの像を結ぶようにまとめあげることで面白いものを作り上げることができないか、という方向を自分の強みとできないか模索しているところ。

①直近の自分の研究テーマに強く関連するもの

時間的な制約があるので、自分の研究テーマに関連するものを集めて、優先度順に読み進めていく。

頭からお尻まで読むか読まないかの判断はぱっと見でやり、全部丁寧に読むもの・全部ざっと読むもの・必要箇所のみ辞書的に読むものに分けて、読む。

 

②自分の研究テーマとの直接の関連は薄いが面白い論文

この著者の本・論文面白い!と思うと、その人の書いたものを追いかけたくなる習性は、趣味でも研究でも私の場合同じかもしれない。

この著者の書いたもの面白いと思ったら、論文や著作は全部読みたくなる。ただ、自分の研究報告や論文の締め切りなどが近いと後手にまわるけど、自分の研究テーマに行き詰ったときに読むと、また別の景色を見せてもらえたり、研究の面白さを思い出させてもらったり、この著者・この論文は面白いっていうものは、身近にいくつか置いておいて邪魔になることはないんじゃないかと思っている。

 

③自分の研究分野の基礎的・古典的な文献

このあたりは、本来なら、日本語訳があるものについては、大学院に入る前にあらかた目を通しておくべきだったという反省が強い。

でも、研究を通じて問題関心が醸成されていくなかで基礎的・古典的な文献にあたると、そこに含まれる大事なものが自分に強く迫ってくるのを感じることもできる。

大学院入学前に読んでおかなかったことはおそらくずっと悔やむけれど、それでも読むべきとき、向き合うときがきたら、気後れせずしかるべく向き合うという心持ちでいる。

 

 

おそらく研究者の数だけ、文献との向き合い方があるので、研究分野の特性などもふまえながら、自分に合った文献との向き合い方の模索をこれからも続けていくのだろうと思う。

 

 

自分にとってのインターネットの黒歴史を振り返る

アラサーな私が、物心がついたときに、最初にはまった戦隊モノはジュウレンジャーだった。

パソコンは小学校に上がる前から自宅に、箱のようなかたちのデスクトップPCがあったけれど、当時はインターネットに接続しておらず、はじめてインターネットに触れたの小学校の授業だったと思う。

小学校高学年ぐらいのときは、自宅もインターネットに接続し、中学校に入学すると、メールのやりとりをPCとかでするようになった。

 

今では、ツイッターフェイスブックなどなど色んなSNSがあって、そのなかのいくつかは実際私もやっているけれど、中学生の当時はジオシティーズでHP作ったり、ブログ作ったり、お絵かき掲示板でお絵かきしたり、ネットでボードゲームとかを楽しんでいた。

HPでは厨二マインドほとばしるままに小説とか詩とか日記とかを書き散らしており、ブログでは受験生生活などをつづっていた。

中高を通じて、面白い授業はそこそこ聞いていたけれど、たいていの授業は授業中に小説のネタや妄想をノートに書き散らしたりと内職に忙しく、あまりきちんと聞いていなかった。

見てくれているひとがいるかどうかは分からないけれど、ネットで小説とか詩とか書くのは楽しかった。

思うに、あの頃は今の倍以上は気力も体力もあった気がする。あと単純に、生活のこととかの大部分が親に守られていたから、悩みが少なくて済んだということもあるだろうと思う。

 

大学に入ると、ミクシが流行っていた時期だったのではじめたけど、ミクシは大学を卒業する頃には周りでもあまり使うひとがいなくなり、私も今はほとんど見ていない。

ツイッターフェイスブックは大学生の頃から今に至るまで続けている。

ツイッターも、大学生の頃は気軽に色々つぶやいていたけど、大学院に入ってからは、あれこれ考えて呟くのは控えめになり、気になったネット記事をクリップするのに使うことが今は多い。

でも、さすがに最近ストレスを感じることが立て続くようになってきて、鍵なしアカですごく抽象的に書くか、書くのもやめるかというのもなんとなくしんどくなり、鍵アカを作るに至った。

フェイスブックは海外にいる友人と連絡をとるのに便利という理由と、年に1~2回生存報告目的に使っている。

 

インスタの波には乗り遅れた。そしてたぶんこのまま波に乗らずにいくのだろうと思う。フォトジェニックな生活を送ってないし、インスタに写真をアップするためにわざわざフォトジェニックなイベントに出かけていく気が起こってこないし、食事を写真に収めたいという気持ちがあまり湧かない。

 

そして、たいして新しくない発信媒体であるブログをなぜか最近になってはじめたのは、ツイッターでは書ききれない量のことを書きたいという気持ちが高まったというのが大きい。

 

そうして、また日々、私はインターネットの黒歴史を更新する。

自分の限界との対峙と優先順位

自分自身の自覚として、体力はある方ではないし、身体がへばると、気持ちも疲れやすくなる。

体力の拡充はちょっとずつでもやっていくべきなのは分かるけど、数日やそこらで劇的に変わるものでもない。

そんな現状をふまえて、現時点で身体を壊さずに、院生生活を続けるにはどうすればいいか、というのは自分にとって結構切実な課題。

 

自分のなかでの優先順位としては、

家族や特に大切な人との時間≥自分の健康の維持≥正当と感じられる対価が発生する作業>>>(超えられない壁)>>>正当な対価は発生しないが納得はなんとかできる作業>>>(超えられない壁)>>>正当な対価は発生せず納得することも難しいが院生生活継続上やむない作業>>>>>(絶対的に超えられない壁)>>>>>正当な対価も発生せず納得もできず院生生活継続上も大きな影響はなく自分のなかで十分な意義が見いだせない作業

というのが、なんとなくある。

実際上、自分の今置かれているなかで、苦痛な感じがなく引き受けられるかどうかの境目は、自分なりに「納得」できるかというところにある。

 

降ってくる作業のすべてを、バリバリこなして、周りも助かり、もしかしたら、作業をこなした自分の評価だって上がるかもしれない。

でも、そこで、私の場合自分に問わなければならないことは、自分の心身が持ちこたえられるか?、そこで得られるかもしれない評価は自分の心身が持ちこたえる以上の価値を自分のなかで見いだせるものなのか?、ということ。

そして、その際に、留意せねばと思っていることは、確かに文系院生は学部生や理系院生と違い時間の都合こそつけやすいものの、自分のなかで研究のために費やすべき時間はフルタイムで働く以上のことも少なくなく、それをふまえたうえで、さらに自分の研究以外の作業を引き受けるということの意味。

作業は一か所だけでなく、多方面から降ってくるかもしれない。そして、その一個一個はフルタイムでやるほどの作業ではないかもしれないし、数時間で済むことかもしれない。でも、一個一個は数時間の作業でも、それが積み重なると結構な時間になる。

私の場合、身体を守ろうと思うと研究以外の作業のあと、研究時間を犠牲にして睡眠時間を確保する。でも、どうしても、研究報告が近くて、研究以外の作業の締め切りも近いと、睡眠時間を削ってフラフラになりながらどうにかこうにかこなすことになる。

でも、作業を頼んでくる一個一個の依頼主は、数時間分の作業を依頼している意識しか当然ないわけで、(正当な対価の用意がない場合であっても)こなせて当たり前という意識で作業を頼んでくる。

 

 

企業でいうところの部下の仕事の割り振りをする上司のような存在が不在だから、自分でこなせる作業量を調節することが必要になる。

断るのも断るので心理的なエネルギーがいるから、そもそも場合によっては話自体が振られないようにするのも一つの手だけれど、それでも降ってきたときには、そのときそのときの自分の心身の状況や自分の研究その他の負荷の量に鑑みて、断ることが自分にとっても、相手にとっても自分なりの誠実さだと思うようにしている。

一般的な労働者ではないうえに、作業は各方面から降ってくるから、倒れたり万が一命が危うくなるとこまでいったとしても、院生の自己管理能力の問題に落ち着くのが関の山。でも、私は、自分の研究に集中した結果、心身に影響が出るのは受けとめられるけど、自分にとってそこまで大切じゃない作業の積み重ねで心身がずたぼろになるのは避けたいと思っている。

作業の依頼主だって、我関せずのひとが多いだろうけど、なかには良心の呵責に悩むひとがいる可能性も(少々は)ある。

だから、自分の状況に鑑みて、断らざるをえないときは断るように、最近はしてる。

 

よい顔ができることより、心身をずたぼろにしないで、研究に取り組むことが現実的に許された時間を研究しながら生きること、家族や本当に大切なひとに関心を払うこと。

それが、自分の小さなキャパシティのなかでも重要な位置を占めるものだから。

自分を守るために、自分でできることはちゃんとやってきたい。

目のためにしている3つのこと

知人の文系研究者から聞いた話で、知人の知人である研究者がマイクロフィルムの見すぎも要因の一つとなって失明したという、なかなか衝撃的な話。

失明とまではいかなくても、文献が読めなくなると研究には相当な打撃のように思う。だいぶゆるゆる生きてきてるけど、それでも視力は徐々に落ちてきていることは感じる。そこで、視力の悪化を少しでも遅らせるべくやっていることを3つほど。

 

① パソコンに表示される文字の大きさの設定を大きめにする

ネットするときもそうだし、ワードの入力画面とか130%ぐらいに拡大してるし、PCも画面が大きめのものを使うようにする。

技術の力で字が大きくできるものは技術の力に甘えて、わざわざちっちゃな文字で見たりしないようにしている。

あと、パソコンとかスマートフォンとか、画面をずっと見続けないように、1時間のうち数分程度は意識的に目を画面から離すようにしている。

 

② 文献コピーをとるときは文字を大きめにとる

知人の研究者が歳をとると昔小さな字で印刷した文献を拡大コピーしなおすはめになるのでだったら最初から大きな字でコピーをとっておいたほうがよいと言っていた。至言だと思う。

外国語の文献は私はまだ書き込みとかを細々しながらではないと思うように読めないので、そういう点でも、コピーは文字を大きめの設定でとることが多い。

 

③ よく眠る

目だけに限らないけれど、疲れたら目も体も心も休ませることが大事だと思う。

目を酷使する時期こそ、しっかり眠るようにしている。

ドイツ語の勉強で参考になったウェブサイト

まだまだ使いこなせるには、ほど遠いドイツ語だけれど勉強の役に立ったウェブサイトを備忘のためにまとめておきたい。

気になるものがあれば随時更新。

 


〇 ドイツ語のウムラウトの入力
・ http://austria.digi-joho.com/travel-info/travel-tips/29-german-language-help/81-how-to-type-umlauts.html


〇 ドイツ語の数字の数え方
〔0~100までもれなく表記〕
・ http://www.sf.airnet.ne.jp/ts/language/number/germanj.html

〔年号の読み方などなど〕
・ http://www.berlinnet789.de/data/yakudati/ichiran/zahl.htm


〇 ドイツ語の略語
〔論文用略語〕
・ http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/9966/abkuerzung.htm

〔法学関係略語〕
・ http://lmullm.exblog.jp/5652210/

 

〇 ドイツ語学習ページ

〔東京外大言語モジュール〕

・ http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/de/

〔ドイツ語文法・会話〕

・ http://www.elearning.he.tohoku.ac.jp/CALLDeutsch/top.html

ストレス解消にやっている5つのこと

ネット記事で列記事項の数を並べたタイトルのつけ方あるあるを踏襲してみた。

ストレス解消法は世の中には数あれど、根暗・内向的な私にフィットした方法は以下の5つだった。

 

 

① 日々の感じたことを文章に書きだすこと

日記みたいにキチキチ毎日書こうと考えると、プレッシャーになっちゃうので、ゆるい感じで書きたいときに書いてる。

ツイッターは人に見られても大丈夫だと思える程度でまあ誰か見てくれたら嬉しいなあぐらいのこと、紙媒体のノートは他人には見せられないことも含め筆のはしるがままに書いている。

特に、しんどいときや辛いとき、気持ちを言葉にせずに、自分のなかでドロドロしたままで抱えこむのも難しく、でもすぐ誰かに弱音を吐けるような状況ではないときは、まず紙媒体のノートに綴るかな。

イメージ的には、ハリーポッターに出てくる、憂いの篩。

ノートには嬉しいことも書くようにしてるから、沈んでるときに読み返すと、よい思い出とそのときの気持ちがじんわりと浮かび上がってきて、ちょっとした自己治療みたいな感じにもなる。

 

② カラオケに行くこと

歌が上手かろうが下手だろうがそんなことはこの場面では関係なし。

人目を気にせず大声を出せて、好きな曲のメロディや歌詞まで味わえたら言うことなし。

もちろん一人で行く。

 

③ 好きなものを食べる

お財布と相談して、無茶じゃない範囲で、自分の好きなものを食べて、飲んで一息つく。

とにかく量を食べてストレス発散は三十手前の胃にはキツイので、胃へのダメージが少なそうで、かつ、自分が好きなものを、自分のペースで食べる。

 

④ ごみごみしてないところを散歩する

ごみごみしてるのは、自転車とか自動車とか人混みとかが気になって疲れやすくなってしまうので、交通量や信号や人混みが少ないところを選んで自分のペースで歩くこと。

荷物は少なめで、でも、軽めの本とメモがとれる程度の筆記具とカフェに入れる程度のお金は持っていく。

落ち着いていて、ケーキとコーヒーが美味しそうな喫茶店と出会えれば、ついでにそこでも一息。

 

⑤ 気の合う人とお茶できそうだったらお茶をする

ここで自分なりに気をつけているのは、ストレスがたまってるときや疲れているときは、もれなく私の場合はメンタルポイントが落ちているということ。

予定が立て込んでいたら、会いたいひとと会うことだって控えめにしているけど、予定がゆるやかでも、自分の気持ちに余裕がなければ、気乗りのしないひととは会うのにものすごく躊躇する。

会って、じっくり話せて、対話が成り立つひと。そんな人とお茶できたりしたら、結構ストレス解消になる。

 

 

自分にとってのストレスの大部分は避けがたく、自分のペースで生きられないこと/自分の気持ちを押し殺さなければいけない場面で生じることが多いので、そういうときこそ、自分の気持ちや声を忘れないようにする時間を全力で死守することが大事なんじゃないかなと思う。

 

身近な人が死にたいほど辛いと告げてきたときに思ったこと

私にはとても大切に想う人がいる。

私が所属組織でもうやってけないんじゃないかっていうぐらいにはしんどかったときに、嫌な顔一つしないで、話を聞いて、私を救い上げてくれた人。

その人のことはとても大好きだけれど、その人が私と恋愛したくなかったら、別のかたちでもいいから、どこかしらで生きていることが分かる程度の距離には生涯ありたいと思わせる人。

 

その人は抱えている生い立ちが複雑な人で、繊細で、優しすぎるぐらい優しすぎる人で、深く深く思考する人。だから、もし何かに悩んだり、人を憎まざるをえないときは、深くその対象について悩んだり、憎んだりもし、その過程で自らの心も痛めつけてしまう、そんなところがある人。

その人は生活環境が変わり、それをきっかけに表面化したしんどい諸々で精神的に追い詰められているようだった。

時々その人が追い詰められているのがごくたまに届く私信から伝わってきた。そんなときにも私は無力で、いつも、いかに私にとってその人が大切で代えがきかない存在であるかをつたない言葉で伝えることしかできない。

そして、いつも切なく思うのは、私ではその人を生きる世界につなぎとめるよすがにはどうしたってなりえないということだった。

死なないで、生きていて、私のことはどう思ってくれてもいいからこの世からはいなくならないで。

私の言葉ではその人の気持ちを救い上げるのにはとても及ばない虚しさに打ちのめされそうになりながら、それでも私はその人のことが大切で愛おしくてたまらないから、虚しさにめげずに繰り返す。

 

どうか、その人が日々を自らを追い詰めないで生きてくれるようにと願ってる。